©Yosuke Hori
フィレンツェはイタリア中部、トスカーナ州にある古都。
花の女神フローラの名を冠したこの街は今でも「花の都」と形容されるように非常に美しい街です。街のシンボル・ドゥオーモ(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)がいつも変わらずに旅行者を迎え入れてくれ、かつてこの地で隆盛を誇ったメディチ家が残した足跡の数々、そしてその中でもイタリアでも有数のコレクションを誇るウフィッツィ美術館などが点在し、年中賑わいを見せています。
伝統的な革製品やジュエリー、アクセサリーなどを製作する工房、トスカーナ地方名産のワインを揃えるエノテカ(ワインバー)、サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局に代表される香水・化粧品・コスメなどのショップも多く、有名な観光地巡り以外にも、楽しめるスポットが多い街でもあります。
街のサイズも大きすぎず程よい感じで、主要なスポットをすべて徒歩でまわることもさほど難しくありません。
フィレンツェの空の玄関口、フィレンツェ・ペレトラ空港 Aeroporto di Firenze Peretolaは中心部の約10キロ北西にあります。日本からの直行便はありませんがローマやヨーロッパ各地から同日での乗り継ぎが比較的容易です。国際空港ではありますが非常に小さな空港で、到着時の荷物ターンテーブルも数本しかないので初めての方は拍子抜けするかもしれません。
フィレンツェ空港〜市街地のアクセスはBUSITALIA-SITA NORD社の空港バスかタクシーとなり、鉄道はありません。
空港バスは「ヴォラインバス VOLAINBUS」と呼ばれ、空港とSMN駅の西側にあるバスターミナルを30分おき・所要約20〜30分で結んでいます。チケットは車内で購入可能ですが、たまにお釣りがないことがあるのでキッチリ予め準備しておいたほうが吉(片道6.00ユーロ、往復10.00ユーロ)。空港の乗り場はターミナルを背にして右側の端、SMN駅では駅前のバス停とSMN駅西側のバスターミナルに発着します。
タクシー利用の場合はSMN駅やドゥオーモ周辺までおよそ15分〜20分程度で到着できます。中心部までは固定料金で20.00ユーロ、祝日や夜間の利用や、大きな荷物の搭載は追加料金が2〜3ユーロ程度かかります。乗り場はターミナル前にあるのですぐ見つかります。
レンタカー利用の場合は、ターミナル正面にある「NAVETTA AUTONOLEGGIO」の看板前からシャトルバスで専用駐車場に移動する必要があります。駐車場に各社のオフィスがあるのでそこで借り出しと返却手続きします。
また、近年ではフィレンツェとの移動が比較的短時間で済む近隣の空港を利用するパターンも一般的で、カタール航空のドーハ便が発着するピサ空港 Aeroporto di Pisaや、エミレーツ航空のドバイ便が発着するボローニャ空港 Aeroporto di Bolognaなどは羽田・成田・関空との乗継もスムーズで利用価値大。
鉄道でフィレンツェに到着する場合、ほとんどの場合中心部のターミナル駅・フィレンツェ・サンタマリアノヴェッラ駅(Firenze SMN)駅に到着します。
一部、市街地を挟んで東の反対にあるカンポ・ディ・マルテ(Campo di Marte)駅発着の列車もありますが、フレッチャロッサなどの優等列車は基本的にSMN駅発着です。SMN駅はローマ・テルミニ駅やミラノ中央駅には規模では及ばないものの歴史を感じさせる風情ある駅舎が特徴の、平面行き止まり式の駅です。コンコースには切符売り場以外にも薬局、バール、マクドナルド、待合室などがあり、すべて同じフロアにあるので分かりやすい、旅行者にやさしい構造。駅前の広大な広場の地下にはショッピングモールがあります。
フレッチャロッサ、イタロなどの高速列車は中央部分のホームに発着していて、どの列車を利用する場合でもホームに入るには乗車券の提示が必要。また、ピサ、リヴォルノ、ボルゴ・サン・ロレンツォ方面へのローカル列車は左に奥まったホーム発着となることがあるので注意。
フィレンツェの市内交通はバス(Autobus)、トラム(Tram)、タクシー(Taxi)があります。
フィレンツェの市内交通はバスとタクシーがほとんどで、近年トラムの路線が敷設されましたが1路線のみで市内中心部には乗り入れていないため、旅行者にとってはバスが最も重要な交通手段として機能しています。
バス・トラムはフィレンツェ市交通局(ATAF Azienda Trasporti dell’Area Fiorentina)が運営していて、オレンジ色の車体が目印。
通常のバスは路線番号と行き先が前面に表示されていますが、中心部を走るミニバスは番号のみ表示されていることがあります。また、環状運転を行う路線もあり、同じ行き先でも番号が違う場合目的地までの所要時間がかなり変わってくることがあるので注意。特に、フィレンツェの市街地が一望できるミケランジェロ広場へ行く場合SMN駅からは12番と13番のバスが利用できますが、12番だと最短距離で行けますが、13番は市街地を東方向に回ってからミケランジェロ広場へ向かうため大幅な時間ロスとなります。
タクシーは台数も多く利用しやすいですが、イタリアの他の都市と同様基本的に流しのタクシーはなく、「TAXI」の看板のあるスタンドで拾うことになります。メーター制で初乗りは2.00ユーロ、時間帯や荷物の数によって追加料金が発生します。車体に「TAXI」のサインと登録番号が書いてあることを確認しましょう。
フィレンツェに行ったらここは必ず行ってみたい、という人も多いはず。一帯は大聖堂とサン・ジョヴァンニ洗礼堂、そしてジョットの鐘楼の3つから構成されていて、大聖堂の赤煉瓦のクーポラはまさにフィレンツェの象徴です。
一般的に「ドゥオーモ」と呼ばれるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂は1296年9月から140年以上を費やして建造されたもので、初代から数えて3代目のもの。外装は典型的なゴシック様式、クーポラ(ドーム部分)はルネサンス初期、正面ファサードはネオゴシック様式とイタリアにある大聖堂でよく見られるようなその時代をそれぞれ象徴する建築様式が混在しています。
大聖堂の殆どの部分はアルノルフォ・ディ・カンビオによって設計され、ローマ・カトリック教会としては世界最大の建築となりました。彼の死後はジョットが引き継いだものの、隣にある鐘楼の建築途中で彼も死去してしまい、一時中断することに。1355年にアルノルフォの図面を元に複数の建築家の手によって工事が再開され、1380年に大聖堂の基礎部分が完成。1418年にはクーポラ部分を残すのみという段階までこぎつけましたが、この時点で既にクーポラの設置予定場所が高さ55メートルと当時の建築技術では設置は困難な高さになっていたことから設計の公募が行われ、フィリッポ・ブルネッレスキの案が採用されました。この公募で落選したギベルティらも助手として参加、1434年にようやくクーポラが完成しました。
1436年に献堂式が行われ、ファサード部分が未完成だったものの、大聖堂そのものはこの時点で一応の完成とされています。クーポラの頂上に乗せるランタン(採光部)はミケロッツォの設計により1461年に追加されたもの。
ちなみに、現在みられるファサード部分はデザインや堅牢性についての議論が絶えず、メディチ家の介入や仮設置などを経て400年近く放置された結果、1864年のデザイン公募の末、1887年に完成したもの。
内部とクーポラは一般公開されていて、内部は日曜午前以外、クーポラは日曜日以外入場が可能。クーポラは延々と続く階段を登った先にあり、かなり体力が必要ですが、絶景なのでオススメです。2000年代には小説・映画「冷静と情熱のあいだ」の重要な舞台のひとつとなり、旅行の間の特別なデートスポットとしてもオススメ。記念の落書きが多すぎて汚くなってしまっているのが残念(いっぱいあるので一個ぐらい増えてもという気になるのも分からなくはないですが、絶対にやめましょう)。
大聖堂の正面にある、八角形の洗礼堂。このエリアを構成するの3つの建築物(大聖堂・礼拝堂・鐘楼)のうち、最も歴史が古く1202年に完成したものです。
洗礼堂内部はシンプルな構造で、中心の祭室と通路以外は何もありません。床面はモザイク、壁面は外壁と同じような大理石による幾何学模様の装飾が施されています。東側に設置されている扉はギベルティによるもので、後にミケランジェロが「天国の門 Porta del Paradiso」と呼び絶賛したもの。現在設置されているものはレプリカで、オリジナルはドゥオーモ付属博物館に展示されています。
1334年、大聖堂の主任建築家だったアルノルフォの死去後を引き継いだジョットによって建築が始められた鐘楼で、高さ約84メートルのゴシック様式建築。
ジョットは建築途中の1337年に死去し、その後は弟子のアンドレア・ピサーノらによって引き継がれました。1387年に完成をみたものの、当初のジョットの設計にあったとされる塔頂部(本当は尖塔になるはずだった)は追加されず、現在のような直方体の建築物となりました。
頂上まで414段の階段で上ることができ、大聖堂のクーポラがクローズしている日曜日も開いていますが、それ以外の日はクーポラから見下ろされてしまうのでちょっと悔しめ。気にする方は迷わずドゥオーモのクーポラのほうに上りましょう。
メディチ家が代々収集してきたコレクションを主に展示している、世界的にも指折りのコレクションを誇る美術館。
世界最古の美術館のひとつでもあり、ルネサンス期を中心とした絵画や彫刻の数々は他に類をみない圧倒的な質を誇っています。名前の「ウフィッツィ」とは「オフィス」の意で、もともとはトスカーナ大公コジモ1世によって建設された行政庁舎だったことがその名の由来。フィレンツェ市街地の中心部にあり、シニョーリア広場とアルノ川の間という立地でアクセスも便利です。
入場は予約なしでも可能ですが、混雑時には入場待ちの列が2時間以上待ちの長さになることも珍しくありません。イタリア旅行専門ブオナツアーズではスムーズな入場・見学をしていただくため、ウフィッツィ美術館入場予約の他、館内を効率よく見てまわるツアー各種をご用意しています。
ウフィッツィ美術館の展示物は常設だけで約2,500点あり、古代ギリシャ、ローマ時代以降の美術品を網羅しています。特に充実しているのはなんといってもボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどルネサンスを彩った数々の芸術家の作品。以下に主な収蔵品タイトルをご紹介します。
サンドロ・ボッティチェリ「春」
サンドロ・ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」
サンドロ・ボッティチェリ「東方三博士の礼拝」
レオナルド・ダ・ヴィンチ「受胎告知」
ピエロ・デッラ・フランチェスカ「ウルビーノ公夫妻の肖像」
ラファエロ・サンティ「ヒワの聖母」
カラヴァッジョ「若きバッカス」
アルブレヒト・ビューラー「東方三賢王の礼拝」
フィリッポ・リッピ「聖母子と二天使」
アンドレア・ヴェロッキオ「キリストの洗礼」
浜田知明「初年兵哀歌」(2008年に日本人作品として初めて収蔵)
「ポンテ・ヴェッキオ」とはイタリア語で「古い橋」の意で、その名の通りフィレンツェでは最古の橋。
アルノ川はよく氾濫する川としても有名で、この場所に掛かっていた橋も何度か流され、現在の橋は1345年に掛けられたもの。1400年代以降橋の上に商店が軒を連ねるようになり、現在は17世紀以来宝飾店が立ちならんでいます。1944年の第2次世界大戦末期、ドイツ軍はフィレンツェに掛かる全ての橋を破壊する予定だったもののこの橋だけはなぜか破壊を逃れるという奇跡も。
橋の両脇に並ぶ店舗の2階部分は、コジモ1世がヴァザーリに作らせたいわゆる「ヴァザーリの回廊」で、ピッティ宮殿とウフィッツィ美術館を繋ぐ通路になっています。通常は非公開ですが、現在限定公開されているのでタイミングが合えば内部を見学することも可能です。
アルノ川西岸にある大きな宮殿で、主にトスカーナ大公国時代に大公の住居として使用されたもの。
元々はメディチ家と対立関係にあったピッティ家が建設に着手したものの、ピッティ家の家系断絶により未完成のまま1550年頃まで放置されていましたが、トスカーナ大公となったコジモ1世がこの宮殿に目をつけ、建設を再開させました。ほどなくして宮殿は完成、コジモ1世は住居としてピッティ宮殿、執務室としてウフィッツィ美術館を利用し、ヴァザーリの回廊を通って通勤していたと言われています。
現在はいくつかの美術館・博物館があり、ピッティ美術館(主にメディチ家コレクション)、近代美術館(主にハプスブルク・ロートリンゲン家のコレクション)、銀器博物館、衣装博物館、陶磁器博物館などがあります。
サンタ・クローチェ教会は世界最大のフランチェスコ派の教会で、現在は数々のイタリアの偉人たちが眠る墓所でもあります。
現存の建物は1294年に建設が始められ、バジリカとしての役割は1442年頃から果たしていたとされています。内部の芸術品もさることながら、ミケランジェロやガリレオ・ガリレイ、ギベルティ、ダンテらの墓所は必見。また、ブルネッレスキ設計によるパッツィ家礼拝堂とその中庭のようになっている回廊部分が非常に美しい空間なので、晴れた日にぜひ行ってみてください。
サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局で有名な教会で、すぐ裏手にあるイタリア国鉄駅の名前「SMN」の由来でもあります。
ドミニコ会の修道士によって始められた教会で、その修道士たちが自ら薬草を栽培、調合していたのが世界最古の薬局「サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局 Officina Profumo Farmaceutica di Santa Maria Novella」。薬局は今も営業しており、教会前の広場突き当たりのスカラ通り(Via della Scala)を右折した右側に入り口があります。東京(銀座、新丸ビルなど)にも支店がありますが、フィレンツェ本店でしか扱っていない化粧水、香水、ジャムなども数多くあるので女性へのおみやげにオススメです。
Photo by ctj71081, size and trim modification applied.
大聖堂(ドゥオーモ)の少し北側、サン・ロレンツォ教会の隣に密着して建てられている礼拝堂で、「君主の礼拝堂 Cappella dei Principi」と「新聖具室 Sagrestia Nuova」の2部分で構成されています。礼拝堂部分はジョヴァンニ・デ・メディチが設計した八角形の大理石敷きの空間で、ここは歴代トスカーナ大公の墓所。また新聖具室はミケランジェロにより設計、装飾された正方形の空間で、墓碑の彫刻もミケランジェロ自身の手によるものです。
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アカデミア美術館はウフィッツィ美術館と並んで人気の美術館で、「アカデミア」の名称はフィレンツェ美術学校(Accadmia di Belle Arti Firenze)の美術館であることから付けられています。
ミケランジェロの彫刻「ダヴィデ像」はもともとシニョーリア広場に置かれていたものの、雨ざらしによる劣化を防ぐためにこちらに移設されました。
フィレンツェの街を一望できる高台にある、ロマンチックな雰囲気の広場。アルノ川沿いの道からポッジ広場前の階段を上って行くこともできます。SMN駅からバス12番を使うと15分〜20分程度で到着するので便利で、夕焼けや夜景が非常に美しいことで有名です。夜になると偽ブランド売りなどが出没しますが、ただの物売りなので興味が無ければ近づかなければOK。夜も旅行者が多く集まる場所なのでひとりやカップルで出かけるのもオススメですが、川から丘へ登る道が暗いと分かりにくいので初めての方はバスを利用したほうが良いかもしれません。
フィレンツェのオススメホテルについては「イタリア・ホテル予約&ガイド:フィレンツェ」をご参照ください。
古代ローマ時代、花の女神フローラの名を冠した街「フロレンティア Florentia」と名付けられたこの街はエトルリア人(イタリア中部の先住民族)により建設され、後にローマ帝国の一殖民都市として発展しました。
フィレンツェが歴史の表舞台に登場するのは12世紀ごろから。1115年に成立したフィレンツェ共和国はアルノ川周辺一帯の肥沃な平野部分を支配し、毛織製造業、金融業、そして地理的な利点を生かした交易で徐々に富を得るようになり、支配力を高めていきました。12世紀に入るとメディチ家が銀行業で成功を収め、フィレンツェ市政における実権を握り始めます。これ以降のフィレンツェの歴史はメディチ家抜きには語れません。
最も隆盛を誇った時代はコジモ・デ・メディチの時代以降で、彼は一旦共和国を追放されるものの1434年にフィレンツェに戻り、それまで対立関係にあった商人・貴族と労働者間を結びつけることに成功、これがメディチ家の共和国支配を盤石なものとする決定打となりました。
コジモの死後は、孫のロレンツォ・デ・メディチがボッティチェリ、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエッロ、ブルネレッスキ、ギベルティなどの芸術家に手厚い保護と金銭的支援を行い、いわゆるルネッサンスの時代を迎えることになります。この時代はフィレンツェが最も栄えた時代であり、彼は「偉大なるロレンツォ Lorenzo il Magnifico」として歴史にその名を残すこととなりました。
しかしこの時代も長くは続かず、1494年にはフランスのシャルル8世がイタリアに侵攻(イタリア戦争)。メディチ家はフィレンツェを追放され。それと同時にドミニコ会の修道士ジローラモ・サヴォナローラが登場すると、メディチ家と隆盛を謳歌する裏で徐々に危機的状況にあった共和国政府の腐敗(特に財政面)を徹底的に糾弾することで民衆の支持を集めていきました。贅沢を禁じ、質素な生活を是とするサヴォナローラの改革により、ロレンツォが花開かせたフィレンツェにおける学問、芸術はみるみる衰退します。しかし、当初は熱狂的な支持を集めていたサヴォナローラですが、あまりの厳格な姿勢と過激な発言により市民の不満は徐々に高まり、ついには教皇を批判をし始めたことにより市民の不信は頂点に達し1498年にシニョーリア広場で処刑という運命を辿りました。
1512年にメディチ家がフィレンツェに戻ってくると、ロレンツォの次男ジョヴァンニが教皇レオ10世として即位し、メディチ家はフィレンツェはもちろんローマ教皇領の実効支配権を手にすることになります。これで再びメディチ家は安泰かと思いきや、1500年代は実は激動の1世紀となります。レオ10世は芸術面で多額の投資を行い、この時代ローマのルネッサンス期は最盛期を迎えますが、その浪費とサンピエトロ大聖堂建設の為の贖宥状の乱発で不信を招き、その結果いわゆる宗教改革の引き金を引いた人物となってしまうのです。
1527年には神聖ローマ帝国によるローマ略奪が発生し、メディチ家は再びフィレンツェから追放されます。3年後にまたもや復帰を果たし、レオ10世の従兄弟の息子であるアレッサンドロがフィレンツェ公となり、ようやくこの時代になってメディチ家はフィレンツェ共和国の君主となることができたのでした。
ただ、やはり長続きしないのもメディチ家らしいところでもあり、1537年にアレッサンドロは暗殺され、ついにメディチ家直系の家系が断絶。結局傍系のコジモ1世が地位を継承し、1569年にはフィレンツェのみならずトスカーナ全体を治める大公となりました。コジモ1世は地位継承までの流れを見ると偶然のもののように思えますが、実は現在見られるようなフィレンツェは彼なしにはありえないもので、都市計画事業で非常に優れた手腕を発揮することになります。ウフィッツィ美術館やヴァザーリの回廊を建設されたのも彼。
コジモ1世の死後はその子孫が代々トスカーナ大公の地位を継承していきますが、大航海時代などを経て徐々に衰退し、やがてイタリアの小国にまでその地位を下げることになります。1737年には第7代大公ジャン・ガストーネが子孫を残さずに死去し、その姉アンナ・マリア・ルイーザが1743年に死去すると、メディチ家の挫折と栄光の歴史は完全にその幕を下ろしたのでした。
しかし、アンナ・マリア・ルイーザは遺言として莫大なメディチ家の財産が永久にフィレンツェに留まることを条件にすべてをトスカーナ政府に寄贈。このことによって、メディチ家の栄華を今に伝える建物やウフィッツィ美術館に残る数々の美術品が現在に伝えられることになり、結果的にメディチ家の名は今になってもフィレンツェと切っても切り離すことのできないものとして残されているのです。