BUONATOURS(ブオナツアーズ) 遥か憧れのイタリアへ。

ASローマ・ホームゲームの観戦チケット手配はブオナツアーズで

ブオナツアーズでは、ASローマの試合観戦旅行全体のプランニング・手配はもちろん、チケット単体での手配も承ります。

セリエAレギュラーシーズン、TIMカップ(コッパ・イタリア)、UEFAチャンピオンズリーグのうち、ローマで開催される各試合のチケット手配が可能です。

シートマップ&料金表

スタディオ・オリンピコ・ディ・ローマ シートマップ

カテゴリー別料金表

チケット単体料金はお問い合わせください。チケットは1枚から手配を承ります。

注意事項等

※ご予約いただいたチケットにつきましては、変更・キャンセルが不可となりますので予めご了承ください。

※カテゴリー分けよりも細かいエリア指定及び座席番号での指定はお受けいたしかねますのでご了承ください。

※2名様以上の場合は極力並びでの手配を行いますが、ご希望に沿えない場合がございます。

※ご予約・手配の際にパスポートのコピーが必要になりますので予めご準備いただきますようお願いいたします。

※イタリア内務省及びレガ・セリエAの規約によりスタジアム入場の際、身分証明書(パスポート)原本の携帯が必要です。

ASローマについて 〜偉大なるローマの、ローマ人による、ローマ人のためのクラブ

クラブ基本情報

正式名称:
Associazione Sportiva Roma
創設:
1927年
会長:
ジェームズ・パロッタ
監督:
ルチアーノ・スパレッティ
ホーム:
スタディオ・オリンピコ(ローマ)
スクデット:
3回
セリエB優勝:
1回
コッパ・イタリア優勝:
9回
スーペルコッパ・イタリアーナ優勝:
2回

ASローマ(正式名称はアソチアツィオーネ・スポルティーヴァ・ローマ)は、ローマのスタディオ・オリンピコを本拠地とするクラブ。

チームカラーは黄色と赤で、愛称はジャッロロッソ(Giallorosso)、ラ・ルーパ(La Lupa・オオカミの意)など。チームの創設は1927年7月で、当時北部勢に圧倒されていたことに対する対抗措置としてアルバ(SS Alba)、ローマンFC(Roman FC)、SGSフォルティトゥード・ローマ(SGS Fortitudo Roma)の3クラブが合併して発足。ASローマの永遠のライバル、SSラツィオも実はその合併に参加する意思を表明していたものの、結局合併は拒否。そういった経緯もあってASローマとSSラツィオの対抗意識は想像を絶するものがあり、この2チームが対戦するダービー、いわゆるローマダービーは文字通り街を二分する戦いで、ティフォージの衝突や警官隊とのイザコザなども頻繁に発生するほどです。

とはいえ、ローマ市内、特に下町地域での人気は圧倒的にASローマの方が高く、ラツィアーレはどちらかというとローマ郊外、つまり市街地以外のラツィオ州内に多いとされています。80年以上に渡ってローマで我が街の誇り高きクラブとして存在してきたASローマですが、成績はいまひとつの時代が長く続いていました。

コッパ・イタリア(現・TIMカップ)の優勝回数こそ9回とユヴェントスに次ぐ成績を誇りますが、スクデット獲得回数はわずか3回に留まっています。黄金時代と呼ばれる時代は1980年代前半で、カルロ・アンチェロッティ、ブルーノ・コンティ、ジュゼッペ・ジャンニーニ、ロベルト・プルッツォなどスター選手を擁した1982/83シーズンにはスクデットを獲得、1983/84シーズンにはチャンピオンズカップ(現・UEFAチャンピオンズリーグ)で準優勝するなど好成績を収めました。特にチャンピオンズカップ準優勝については、決勝戦が偶然にも地元ローマ開催だったにも関わらず、リヴァプールに1-1(PK5-3)で敗れるというもうあと一歩だったこと、そしてそれ以降は現在に至るまで決勝戦にはたどり着けていないこともあって、未だにロマニスタの間では語り草になっています。

その後もまた低迷の時代が続きますが、1992年にフランコ・センシがチームを買収し会長に就任すると、積極的な監督起用と補強で徐々にチーム力をつけていくことになります。

1993年に下部組織出身で、生まれも育ちも根っからのローマ人、フランチェスコ・トッティがわずか16歳でセリエAデビューを飾り、1997/98シーズンには弱冠20歳の若さでキャプテンに就任。前代・ジャンニーニの跡を次ぐ「王子(イル・プリンチペ)」と呼ばれるようになります。1999/00シーズンには優勝請負人として名将ファビオ・カペッロが監督に就任、このシーズンこそライバルのSSラツィオにスクデットを獲得される屈辱を味わうことになるものの、トッティ、バティストゥータ、モンテッラ、中田英寿ら豊富なタレントを擁して、翌2000/01シーズンに18シーズンぶりに悲願のスクデットを獲得します。この時はローマ市街地でロマニスタによる祭りが1週間も続き、古代競技場遺跡のチルコ・マッシモには10万人以上の市民が集結しての記念パーティー&ライブが行われました。

その後はスクデット獲得こそないものの、トッティは今においても偉大なるキャプテンとして絶大な存在感でチームに君臨し、チームもコンスタントにチャンピオンズリーグ出場圏内の成績(3位以内)を残しています。

2010年、長きに渡ってASローマの実権を握ってきたセンシ一族(フランコ・センシは2008年に死去、その後は娘のロゼッラが会長)が多額の負債を抱え破産状態となった為、株式を売却せざるを得ない状況に陥りました。チームはウニクレディト銀行の管理下に置かれ売却先を探していましたが、2011年にイタリア系アメリカ人トーマス・ディベネデットによって買収されています。(ディベネデットは11/12シーズン終了時に辞任し、同じくイタリア系アメリカ人のジェームス・パロッタが会長に就任)

2013/14シーズン、リール(フランス・リーグアン)からリュディ・ガルシアを引き抜いて就任。当初は懐疑的な目も多かったガルシアの手腕ですが、フタを明けてみれば圧倒的な強さを誇ったユヴェントスには及ばなかったものの2位でフィニッシュし、久しぶりのCL本戦出場権を獲得しました。アメリカ的なマーケティング手法を取り入れたフロントも次々と中長期的なクラブ運営ビジョンを打ち出し、ナイキとのサプライヤー10年契約、一時は頓挫しかけた専用スタジアム建設計画をローマ市長のお墨付きの元で発表するなど、ここのところパッとしないミラノの2大クラブを差し置いて、ユヴェントスに次ぐイタリアを代表するクラブへと変貌を遂げようとしています。

2015/16シーズンはシーズン序盤でのユヴェントスの低迷ぶりや、ジェコ、サラー、シュチェスニーなど主力クラスを補強できたこともあって大いに期待されていましたが、勝負どころで勝ち切れない時期が続き、ガルシアが解任。かつてこのチームでゼロトップ戦術を採用し注目されたルチアーノ・スパレッティが再登板することになりました。40歳を迎える主将トッティと起用法をめぐって対立することもありましたが、最終盤では途中起用で大活躍を見せるなど、関係の改善の兆しも見えてきています。

スタディオ・オリンピコ(ローマ) Stadio Olimpico di Roma

ゴール裏のロマニスタ

ローマ市街地の北部、テヴェレ川沿いにあるモンテ・マリオの丘のふもとにあるスタジアムで、ASローマとSSラツィオがホームとして使用しています。フォロ・イタリコ(Foro Italico)と呼ばれるスポーツ施設が集まるエリアにあり、イタリアオリンピック協会(CONI)本部などが隣接しています。元々はムッソリーニの命で建設された複合スポーツ施設で、元々の名称も「フォロ・ムッソリーニ(Foro Mussolini)」というものでした。正面広場のオベリスクに彫られた「MVSSOLINI」の彫刻や、モザイクに埋め込まれた「DVCE(=ドゥーチェ、親方の意味でムッソリーニの愛称)」にその名残を見ることができます。

1937年に前身となるスタディオ・デル・チプレッシ(Stadio del Cipressi)として開場し、1953年に大改装が行われたことで収容人数が10万人になったことからスタディオ・デイ・チェントミラ(Stadio dei Centomila)と呼ばれるようになり、1960年のローマ・オリンピック開催に合わせて正式名称がスタディオ・オリンピコ(Stadio Olimpico)と改称されました。1990年のFIFAワールドカップ開催に合わせて現在みられる観客席上部の白い屋根が取り付けられました。

内部はすり鉢状の一層式で、傾斜が比較的ゆるやかな構造になっています。陸上トラックや侵入防止用の溝があるためピッチまでは少し離れていますが、よほど前の方でなければ見にくい感じではありません(最前列〜5列目あたりまではあまりに見にくいため、通常チケット販売は行われません)。08-09シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ決勝の開催にあわせて座席の改修や、映像スクリーンのLED・HD化が行われました。

スタディオ・オリンピコへのアクセス

地下鉄A線フラミニオ駅(Flaminio)前からトラム2番で終点マンチーニ広場(Piazza Mancini)まで行き、テヴェレ川を渡ってすぐ。テルミニ駅からの910番バスや、オッタヴィアーノ駅前からの32番で行くことも可能ですが、試合日は渋滞が激しく時間が読めないこともあり、フラミニオ起点のトラムを利用することをオススメします。

ASローマの練習場「チェントロ・スポルティーヴォ・フルヴィオ・ベルナルディーニ(トリゴリア)」

ASローマの練習場、「チェントロ・スポルティーヴォ・フルヴィオ・ベルナルディーニ Centro Sportivo Fulvio Bernardini」、通称「トリゴリア Trigoria」はローマ市街地の南約20キロ南にあります。

練習は通常非公開ですが、稀に公開されることもあります。入り口ゲート前で選手の出入り・出待ちは可能。平日でも多くのロマニスタが集まっていることが多いですが、クラブとロマニスタの間で揉め事があったりすると暴動のようになることがあるので注意。

公共交通機関で行くことが可能。まず地下鉄B線でエウル・フェルミ駅(EUR Fermi)まで行き、駅そばのアルテ通り(Via dell’Arte)のバス停から707番(Valgrisi行き)に乗り約30分ほどのディーノ・ヴィオラ広場(Piazzale Dino Viola)で下車。地下鉄B線ラウレンティーナ駅前からタクシーで行くことも可能です。

覚えればもっと楽しい!ASローマの応援歌

Roma, Roma(ローマ・ローマ)

「Roma, Roma(ローマ・ローマ)」は1975年に発表されたローマ出身の歌手アントネッロ・ヴェンディッティの楽曲。現在はクラブ公式曲であると共にホームゲームでは必ず試合前に観客が合唱する全編ローマ方言で歌われる名曲です。徐々に盛り上がっていき、最後の「ローマ、ローマ、ローマ」の部分では音楽が消えて凄まじい絶叫がスタジアムに響き渡ります。

Roma Roma Roma, core de ‘sta Citta
ローマ、ローマ、ローマ、この街の心よ

unico grande amore de tanta e tanta gente che fai sospira.
多くの人の心を虜にする、唯一にして偉大なる愛よ

Roma Roma Roma, lassace canta,
ローマ、ローマ、ローマ、歌わせてくれよ

da ‘sta voce nasce n’coro so’ centomila voci ciai fatto ‘nnamora.
ひとつの声から十万の声が生まれ、そして私たちは恋に落ちるのだ

Roma Roma bella, t’ho dipinta io
ローマ、ローマ、美しきローマ、あなたが私を染めたのだ

gialla come er sole rossa come er core mio.
太陽のように黄色く、そして私の心のように赤く

Roma Roma mia, nun te fa ‘ncanta
ローマ、ローマ、私のローマ、決してあなたは惑わされないで

tu sei nata grande e grande hai da resta.
あなたは生まれながらにして偉大で、永遠にそうあり続けるのだ

Roma Roma Roma, core de ‘sta Citta
ローマ、ローマ、ローマ、この街の心よ

unico grande amore de tanta e tanta gente m’hai fatto ‘nammora.
私を恋の虜にした、唯一にして偉大なる愛よ

Campo Testaccio(カンポ・テスタッチョ)

最近は試合開始の30分前頃に流されることの多いこの曲は、ASローマの最初のアンセム(イタリア語でinno)で、1930年代中頃に歌われ始めたもの。 「カンポ・テスタッチョ」とは1929年〜1940年までローマがホームとしていたスタジアムで、現在の地下鉄B線ピラミデ駅のすぐ近くにありました。マセッティ、デ・ミケーリ、ボディーニ、ベルナルディーニ、フェラーリスなど1930年〜40年台にクラブや代表で活躍した往年の名選手が歌詞に登場します。

Grazie Roma(グラツィエ・ローマ)

ローマの勝利後に必ず流される曲で、1982-83シーズンのスクデットを記念してヴェンディッティが制作した楽曲です。